農業団地」という幻想――中山間地は“縮小”ではなく“再編集”で生きる

「工業団地ならぬ、農業団地だ」――。近年、農地の大区画化や集積化を地域再生の切り札として称賛する報道が目立つ。例えば、鳥取県西部では、数百枚に分散した農地を統合し、大型機械が走れる効率的な営農基盤づくりが進められている。しかし、この成功モデルを見聞きするたびに、中四国の中山間地を愛する者として、強い違和感を覚える。
誤解して欲しくはない。大規模化そのものを否定したいわけではない。平坦地においては一定の合理性がある。担い手不足が深刻化するなか、農地集積が必要な局面もあるだろう。問題は、そのモデルを、地形も条件もまったく異なる中山間地へ機械的に移植しようとする「政策の思考停止」にある。
そもそも中国・四国地方は、農地の約7〜8割が中山間地域を占める、全国有数の“山がちな農業地帯”である。北海道や新潟の平場農業とは土俵が違う。大区画化が可能な平坦地は一部に限られ、多くの現場は傾斜地の棚田や小規模農地だ。
これを無理に均し、大型機械を前提に再編すれば、莫大な土木費用が必要になる。しかも、削られた法面(のりめん)の草刈り、水路維持など、機械化しづらい泥臭い管理業務はむしろ増える。効率化の名の下に、見えない維持コストを未来へ先送りしているに過ぎない。
さらに深刻なのは、「担い手への過度な一極集中」である。集積の現場で頼られるのは、地域に数人しか残っていない「まだ動ける」60代だ。日本の基幹的農業従事者の平均年齢は70歳近くに達しつつある。その中で、「お前しかいない」という地域の空気に押され、限界を超えた農地を抱え込む人が増えている。
だが、この構造は脆い。一人の中心人物が病気や事故で倒れれば、集落全体がドミノ倒しのように機能不全に陥る。これは持続可能な経営ではない。しばしば語られる「顔の見える合意形成」も、過疎集落の現実では、必ずしも自由な意思決定とは限らない。「反対がなかった」のではない。「反対できなかった」場合も少なくない。
では、中四国の農業は何を目指すべきなのか。
必要なのは、「理想のインフラ」を追い求める発想ではない。今ある地形、今ある高齢者の知恵、今ある地域資源を創造的に組み合わせる「ブリコラージュ(寄せ集めの創造)」の経営である。
第一に、面積競争を捨てることだ。海外の大規模農場と価格競争するのではなく、その土地でしか生まれない希少性に賭ける。限られた土地と地下水を活かした高付加価値野菜や、地域固有品種のブランド化は、その典型である。
第二に、単作農業を捨てることだ。小規模多品種、加工、EC、観光、飲食連携を組み合わせ、収益源を分散する。「農業だけ」で成立させようとする時代は終わった。
第三に、「農業単体」という発想を捨てることだ。林業、福祉、地域交通、再エネなどを組み合わせ、草刈りやインフラ維持を地域全体で支える複合経営へ移行する必要がある。
これは農業だけの問題ではない。地方の現場に、大企業型の効率モデルをそのまま輸入し、固有性を壊してきた日本全体の構造課題でもある。生き残る地域とは、標準化で勝つ地域ではない。不利な条件を“編集”し、固有の価値へ転換できる地域だ。
中山間地に必要なのは、「農業団地」という幻想ではない。

