幻想の民主化と「相互誤認」 ── SNS・陰謀論時代における唯幻論の射程

2026年5月、思想家・岸田秀が92歳で永眠した。1977年の『ものぐさ精神分析』の登場は、当時の言論界における単なる「精神分析の流行」の枠を遥かに超え、戦後日本が拠って立つ「現実」そのものを根底から揺るがす思想的事件であった。彼の唱えた「唯幻論」は、近代というシステム、そして戦後日本という巨大な劇場を解剖するための、最も過激で最も冷徹なメスであったと言える。

現代のデジタル空間における「幻想の民主化(断片化)」や「相互誤認の高速増殖」という病理を、中小企業という「小さな組織・生態系」に引き写したとき、唯幻論は極めて実践的な経営のコンテキスト(OS)として機能します。

  1. 組織内「個別幻想」の融和と経営理念の再構築
    • 背景:一元的なフィクション(かつての共同幻想)が解体した今、従業員もまた個人の好みに最適化された「個別幻想」を生きています。
    • 効果:経営者が「自社の理念も一つの機能的フィクション」であると徹底的に自己相対化(メタ認知)することで、トップダウンの押し付けを排し、個々の実存的防衛線を傷つけずに緩やかに包摂する「対話型のビジョン」を構築できます(組織の遠心力の抑止)。
  2. 顧客関係における「相互誤認」の暴走抑止
    • 背景:SNS時代、自社の強みや顧客のニーズを都合よく解釈する「相互誤認」は、過剰な期待や、一転した「陰謀論的」なクレーム(炎上)を生みやすい環境にあります。
    • 効果:自社ブランドも顧客の評価も「互いの認知が作り出した幻想」であるという冷徹な構え(ものぐさな諦念)を持つことで、過剰な熱狂や憎悪から一歩身を引き、顧客との適切な距離感を保つ「組織の精神的免疫システム」が確立されます。
  3. 変化に柔軟な「だましだまし」の適応力
    • 背景:市場やテクノロジー(AIなど)の激変期において、「外側に確固たる真実(絶対の正解)」を求める経営は脆く崩れ去ります。
    • 効果:現在のビジネスモデルも「狂気を生き延びるためのフィクション」に過ぎないと割り切ることで、過去の成功体験(古い幻想)を速やかに手放し、世界を「だましだまし」正気で生き抜くための柔軟なピボット(方針転換)と心理的余白が手に入ります。

現在のSNS社会、およびそこで猖獗(しょうけつ)を極める陰謀論の蔓延を読み解く上で、岸田秀さんの唯幻論はかつてないほどの予言性を帯びて立ち現れてくる。なぜなら、現代のデジタル空間とは、岸田さんの言う「人間は幻想を構築しなければ生きられない」という病理が、テクノロジーによって極限まで増幅され、可視化された世界そのものだからである。

かつて、国家や宗教、あるいはマスメディアが提供していた「共同幻想」は、社会全体を緩やかに統合するための巨大なシステム(一元的なフィクション)であった。しかし、SNSの登場は、この共同幻想の調停者を解体し、「幻想の民主化(断片化)」を引き起こした。アルゴリズムが個人の欲望や不安に最適化した情報を供給する「フィルターバブル」の世界では、人々は共通の現実(リアル)を生きているのではなく、個人あるいは自集団の好みに合わせて精製された「個別幻想」を生きている。

ここで重要なのは、陰謀論の本質を「無知やデマによる誤認」と一蹴する従来の啓蒙主義的なアプローチが、現代において完全に機能不全に陥っている点である。唯幻論のパースペクティブ(視座)に立てば、陰謀論とは「事実の誤認」ではなく、本能を喪失し、世界の複雑さに耐えかねた個人が、自己の精神の崩壊を防ぐために必死に編み上げた「実存的な防衛線(フィクション)」にほかならない。

岸田さんは、人間が自己を維持するために他者との関係を都合よく解釈する「相互誤認」のメカニズムを鋭く分析したが、SNS上の陰謀論やエコーチェンバー(共鳴部屋)は、まさにこの相互誤認の高速増殖炉である。世界は特定の悪意によって支配されているという「物語」を共有することで、孤立した個人は「世界の秘密を知る特別な主体」という偽りの自己(ペルソナ)を獲得し、一時的な精神の安定(カタルシス)を得る。つまり、陰謀論は客観的ファクト(事実)によって検証・論破できる種類のものではなく、それを信じる人間にとっては「それなしでは世界がばらばらに崩壊してしまう」ほどの切実な生存プログラムなのだ。

ここに、現代における唯幻論の批評的有効性と、岸田秀という思想家が遺した最大の処方箋がある。

岸田さんは、「すべての現実が幻想である」とした上で、「自分が幻想を生きているという自覚(メタ認知)」の重要性を説き続けた。現代のディープフェイクやAIによる情報空間の変容は、何が事実で何が虚構かの境界を消滅させつつあるが、唯幻論は私たちに「外側に確固たる真実を求めるな」という冷徹な構えを要求する。

陰謀論に狂奔する人々も、それに正義感から対抗しようとする人々も、双方が「自分たちこそが剥き出しの真実に触れている」という過剰な熱狂(狂気)に囚われている点において同質である。これに対し、岸田さんが貫いた「ものぐさ」な諦念は、そうした真実への信仰そのものを内側から解体する。

「どうせこちらもあちらも、それぞれの狂気を生き延びるための幻想(フィクション)なのだ」という徹底した自己相対化。この諦念をOSとしてインストールすることではじめて、私たちはネット上の過剰な正義や憎悪の熱狂から一歩身を引き、世界を「だましだまし」正気で生き抜くための心理的余白を確保できるのである。

情報の氾濫によって「幻想の過剰流動性」がもたらす現代の精神的パニックに対し、岸田の唯幻論は、毒を以て毒を制するような、最も強靭な精神の免疫システムとして機能し続けている。

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